Julia線形代数:schur!()代替メソッドと使い分け
Julia言語のLinearAlgebra.schur!()
は、行列のシューア分解を計算するための関数です。末尾に!
がついていることからわかるように、この関数は引数として渡された行列を破壊的に変更します。つまり、元の行列が上書きされます。
シューア分解とは?
シューア分解(Schur decomposition)は、正方行列 A を以下のように分解するものです。
A=ZTZ∗
ここで、
- T は上三角行列(または準上三角行列)です。
- Z はユニタリ行列です。つまり、Z∗Z=I (I は単位行列)を満たします。Z∗ は Z の共役転置を表します。実数の行列の場合、Z は直交行列(ZTZ=I)になります。
上三角行列とは、対角成分より下の成分がすべてゼロである行列です。 準上三角行列とは、実数の行列の場合に現れるもので、対角成分に1x1ブロック(実固有値に対応)と2x2ブロック(共役複素数固有値のペアに対応)を持つブロック上三角行列を指します。これにより、実数演算のみでシューア分解を扱うことができます。
シューア分解の主な特徴と用途は以下の通りです。
- 不変部分空間: Z の列ベクトルは、対応する T のブロックによって構成される不変部分空間(invariant subspace)を形成します。
- 安定した計算: 固有値分解に比べて数値的に安定しているため、浮動小数点計算での誤差の影響を受けにくいとされています。
- 非対称行列の固有値解析: 一般的な非対称行列の固有値問題を解析する上で、シューア分解は非常に強力なツールです。対称行列やエルミート行列の場合、固有値分解(A=QΛQ∗)の方が直接的ですが、シューア分解はより一般的な場合に適用できます。
- 固有値の計算: 上三角行列 T の対角成分(実数の場合は1x1ブロックの対角成分、2x2ブロックの固有値)は、元の行列 A の固有値と一致します。これにより、固有値を安定して計算することができます。
LinearAlgebra.schur!()
の使い方
Juliaでは、LinearAlgebra
モジュールをusing LinearAlgebra
でインポートして使用します。
基本的な使い方は以下のようになります。
using LinearAlgebra
A = rand(5, 5) # 5x5のランダムな行列を作成
# schur! を呼び出すと、Aが上書きされ、Schurオブジェクトが返される
F = schur!(A)
# 結果はSchurオブジェクトとして返され、以下の要素にアクセスできる
# F.T: 上三角行列 (または準上三角行列)
# F.Z: ユニタリ行列 (または直交行列)
# F.values: 固有値の配列 (F.Tの対角成分から得られる)
println("元の行列 (上書き後):")
println(A) # Aはschur!によって上書きされている
println("\n上三角行列 T:")
println(F.T)
println("\nユニタリ行列 Z:")
println(F.Z)
println("\n固有値:")
println(F.values)
# 検証: Z * T * Z' が元の行列A(分解前の)にほぼ等しいか
# ただし、Aは上書きされているため、元のAが必要なら事前にコピーしておく
# ここでは、分解後の要素を使って確認
println("\nZ * T * Z' の再構成:")
println(F.Z * F.T * F.Z')
Juliaの線形代数関数では、末尾に!
が付くか付かないかで、動作が異なります。
schur!(A)
: 行列A
を破壊的に変更(上書き)して、シューア分解の結果をSchur
オブジェクトとして返します。メモリ効率が良いですが、元の行列が不要な場合にのみ使用すべきです。schur(A)
: 行列A
を変更せずに、シューア分解の結果を新しいSchur
オブジェクトとして返します。元の行列は保持されます。
MethodError: no method matching schur!(::Any)
エラーの状況
schur!
を呼び出した際に、引数の型が正しくない場合によく発生します。特に、行列として期待されるもの(例えば Matrix{Float64}
や Matrix{ComplexF64}
)ではないものを渡した場合です。
よくある原因
- 未初期化変数: 変数を宣言しただけで、実際には行列を代入していない。
- 間違ったデータ構造: 単なる配列やベクトルなど、
Matrix
型ではないものを渡している。 - 非数値型: 文字列、ブール値など、数値ではない型の配列を渡している。
トラブルシューティング
- 行列として初期化する:
# 例: 間違い # A = [1, 2, 3] # これはVector # F = schur!(A) # MethodError # 例: 正しい A = [1.0 2.0; 3.0 4.0] # これはMatrix F = schur!(A) # または、Matrix型の初期化を明示的に A_matrix = Matrix{Float64}(undef, 2, 2) A_matrix[1,1] = 1.0; A_matrix[1,2] = 2.0 A_matrix[2,1] = 3.0; A_matrix[2,2] = 4.0 F = schur!(A_matrix)
- 数値型の行列であることを確認する:
eltype(A)
で要素の型を確認し、Float64
やComplexF64
などの数値型であることを確認します。 - 引数の型を確認する:
typeof(A)
を実行して、schur!
に渡す引数A
の型がMatrix{T}
のようになっているか確認します。
UndefVarError: schur! not defined
エラーの状況
schur!
関数が存在しない、またはアクセスできないというエラーです。
よくある原因
LinearAlgebra
モジュールがインポートされていない。
トラブルシューティング
- コードの冒頭で
using LinearAlgebra
を追加しているか確認します。using LinearAlgebra # これを忘れない! A = rand(3, 3) F = schur!(A)
特異行列(Singular Matrix)に関する懸念(直接的なエラーではないが注意点)
エラーの状況
schur!()
関数自体は特異行列に対してもエラーを出すことは稀ですが、特異行列のシューア分解の解釈には注意が必要です。特異行列は少なくとも一つの固有値がゼロであることを意味します。
よくある原因
- 問題となるのは、その結果を後続の計算(例えば逆行列を必要とするもの)に利用しようとした場合です。
- 入力行列が特異であること自体は、
schur!
のアルゴリズムにとって問題ではありません。
トラブルシューティング
- 後続の計算への影響: もしシューア分解の結果を、システムを解く(Ax=b)など、逆行列が存在することを前提とした計算に使う場合は、事前に行列が特異でないことを確認するか、特異行列に対応できるようなロバストなアルゴリズムを検討する必要があります。
- 固有値の確認: 特異行列かどうかを調べるには、
F.values
を確認し、ゼロに近い値の固有値が存在するかどうかを調べます。 schur!
は逆行列計算ではない:schur!
は逆行列を計算する関数ではないため、特異行列でも問題なく動作します。
メモリ不足エラー (OutOfMemoryError)
エラーの状況
非常に大きな行列に対して schur!()
を実行しようとした際に、メモリが足りなくなることがあります。
よくある原因
- 非常に大きな密行列(多くの非ゼロ要素を持つ行列)を扱っている。
トラブルシューティング
- 計算資源の最適化: 複数のプロセッサコアや分散計算を利用するなど。
- データ型の変更: 必要であれば、
Float64
からFloat32
に変更してメモリ消費を抑える(ただし精度が犠牲になります)。 - メモリの増強: 物理的なメモリを増やす。
- 疎行列の利用を検討する: もし行列が大部分がゼロである疎行列であれば、
SparseArrays
モジュールの利用を検討します。ただし、schur!
は基本的に密行列に対する操作であるため、直接的な疎行列対応のschur!
はありません(一部の特殊なアルゴリズムを除く)。大規模な疎行列の固有値解析には、イテレーション法(例:eigs
fromArpack.jl
)がより適しています。
エラーの状況
非常に悪条件の行列(例えば、ほぼ特異な行列や、非常に大きな値と非常に小さな値が混在する行列)に対してシューア分解を行うと、結果の精度が期待通りにならないことがあります。これはエラーとしてではなく、結果の信頼性の問題として現れます。
よくある原因
- 浮動小数点数の限界。
- 入力行列の条件数が非常に悪い。
- 結果の検証: シューア分解の結果 ZTZ∗ が元の A にどれだけ近いかを検証することで、結果の信頼性を評価します。
このノルムが非常に大きい場合、結果の精度に問題がある可能性があります。using LinearAlgebra A = rand(3, 3) F = schur!(copy(A)) # Aをコピーして渡すことで、元のAが保存される reconstructed_A = F.Z * F.T * F.Z' println("元のAと再構成されたAの差のノルム: ", norm(A - reconstructed_A))
- より高い精度での計算:
BigFloat
を使用してより高い精度で計算を行うことを検討します。ただし、計算時間は大幅に増加します。using LinearAlgebra A_high_precision = BigFloat.([1.0 1.0000000000000001; 0.0 1.0]) # 非常に悪条件の例 F_big = schur!(A_high_precision) println(F_big.values)
- 行列のスケール調整: 必要に応じて、行列の要素をスケール調整して、数値範囲を適切なものにする。
準備
まず、LinearAlgebra
モジュールをインポートします。
using LinearAlgebra
using Printf # 出力フォーマットを整えるため
例1: 基本的なシューア分解と結果の確認
最も基本的な使用例です。ランダムな行列のシューア分解を行い、その結果(T と Z)が元の行列を再構成できることを確認します。
println("--- 例1: 基本的なシューア分解と結果の確認 ---")
# 5x5 のランダムな実数行列を作成
A_original = rand(5, 5) * 10 - 5 # -5から5の範囲の値を生成
println("元の行列 A_original:")
display(A_original)
# schur! を呼び出す前にAをコピーしておく (A_originalは変更されない)
A = copy(A_original)
# schur! を使ってシューア分解を実行
# Aは上書きされる
F = schur!(A)
println("\nschur! 実行後の行列 A (上書きされている):")
display(A) # A_originalとは異なる内容になっているはず
println("\n上三角行列 T (F.T):")
display(F.T)
println("\nユニタリ行列 Z (F.Z):")
display(F.Z)
println("\n固有値 (F.values):")
display(F.values)
# 検証: Z * T * Z' が元の行列 (分解前) とほぼ等しいことを確認
# (F.Z * F.T * F.Z') は元のA_originalに戻るべき
reconstructed_A = F.Z * F.T * F.Z'
println("\n再構成された行列 Z * T * Z':")
display(reconstructed_A)
# 元の行列と再構成された行列の差のノルムを計算
diff_norm = norm(A_original - reconstructed_A)
@printf "\n元の行列と再構成された行列の差のノルム: %.15e\n" diff_norm
# ノルムが非常に小さい(浮動小数点誤差の範囲内)ことを確認
if diff_norm < 1e-10
println("-> 検証成功: 再構成された行列は元の行列とほぼ一致します。")
else
println("-> 検証失敗: 再構成された行列と元の行列に大きな差があります。")
end
例2: 複素数行列のシューア分解
複素数行列に対しても同様に schur!()
を使用できます。
println("\n--- 例2: 複素数行列のシューア分解 ---")
# 3x3 のランダムな複素数行列を作成
B_original = rand(3, 3) + rand(3, 3) .* im # 実部と虚部を持つ
println("元の複素数行列 B_original:")
display(B_original)
B = copy(B_original)
# schur! を使って複素数行列のシューア分解を実行
G = schur!(B)
println("\n上三角行列 T (G.T):")
display(G.T)
println("\nユニタリ行列 Z (G.Z):")
display(G.Z)
println("\n固有値 (G.values):")
display(G.values)
# 検証
reconstructed_B = G.Z * G.T * G.Z'
diff_norm_complex = norm(B_original - reconstructed_B)
@printf "\n元の複素数行列と再構成された行列の差のノルム: %.15e\n" diff_norm_complex
if diff_norm_complex < 1e-10
println("-> 検証成功: 複素数行列の再構成も問題ありません。")
else
println("-> 検証失敗: 複素数行列の再構成に問題があります。")
end
例3: 実数行列の場合の準上三角形式 (Real Schur Form)
実数行列のシューア分解では、固有値が複素共役のペアになる場合、T
は上三角行列ではなく、2x2のブロックを持つ準上三角行列 (Real Schur Form) になることがあります。schur()
(破壊的でないバージョン)を使うと、Schur
オブジェクトの .Schur
フィールドに、その形式が示されます。
println("\n--- 例3: 実数行列の場合の準上三角形式 (Real Schur Form) ---")
# 複素共役の固有値を持つ可能性のある行列を作成
C_original = [0.0 -1.0; 1.0 0.0] # 固有値は ±i
println("元の行列 C_original (固有値は複素数):")
display(C_original)
C = copy(C_original)
# schur! を実行
H = schur!(C)
println("\n上三角行列 T (H.T) - 2x2ブロックに注目:")
display(H.T)
println("\nユニタリ行列 Z (H.Z):")
display(H.Z)
println("\n固有値 (H.values):")
display(H.values) # 固有値は複素数として表示される
# Real Schur Form の場合、Tの対角に2x2ブロックが現れる
# この例では、[0 -1; 1 0] のブロックがTの左上隅に現れる
# このブロックの固有値が元の行列の複素共役固有値となる
schur!()
は元の行列を破壊的に変更するため、大規模な行列に対してメモリ効率が良いです。コピーを避けることで、メモリ使用量と実行時間の両方を削減できます。
println("\n--- 例4: schur!() とパフォーマンス (大規模行列) ---")
# 非常に大きな行列 (例として 1000x1000)
N = 1000
println("N = ", N, " の行列でパフォーマンスを比較します。")
# 破壊的ではない schur() の場合 (コピーが発生)
println("\n--- schur() (非破壊的) ---")
big_matrix_original_schur = rand(N, N)
@time begin
# schur() は行列をコピーして処理するため、追加のメモリが必要
F_schur = schur(big_matrix_original_schur)
end
println("schur() 実行後、元の行列は変更されていない:")
# check if it's the same
# println(big_matrix_original_schur[1,1])
# 破壊的な schur!() の場合 (コピーなし)
println("\n--- schur!() (破壊的) ---")
big_matrix_schur_bang = rand(N, N) # 新しい行列を作成
@time begin
# schur!() は元の行列を直接変更するため、コピーのオーバーヘッドがない
F_schur_bang = schur!(big_matrix_schur_bang)
end
println("schur!() 実行後、元の行列は上書きされている:")
# check if it's different
# println(big_matrix_schur_bang[1,1])
# 通常、同じサイズの行列であれば schur!() の方がわずかに速く、メモリ使用量も少ない傾向があります。
# 特にメモリが逼迫している状況で効果的です。
LinearAlgebra.schur() (非破壊的バージョン)
説明
これはschur!()
の最も直接的な代替です。機能は全く同じですが、引数として渡された行列を変更しません。新しいSchur
オブジェクトを返します。
いつ使うか
- メモリが非常に潤沢で、コピーによるオーバーヘッドが許容できる場合。
- 破壊的変更による副作用を避けたい場合。
- 元の行列の値を保持したい場合。
プログラミング例
using LinearAlgebra
A_original = rand(4, 4)
println("元の行列 A_original:")
display(A_original)
# schur() を呼び出す。A_originalは変更されない
F = schur(A_original)
println("\nschur() 実行後の行列 A_original (変更なし):")
display(A_original)
println("\n上三角行列 T (F.T):")
display(F.T)
# 検証 (元のA_originalと再構成されたものが一致することを確認)
reconstructed_A = F.Z * F.T * F.Z'
println("\n元の行列と再構成された行列の差のノルム: ", norm(A_original - reconstructed_A))
LinearAlgebra.eig() または LinearAlgebra.eigen() (固有値分解)
説明
シューア分解と密接に関連していますが、異なります。固有値分解(Eigenvalue Decomposition)は、行列 A を A=VΛV−1 の形に分解します。ここで V は固有ベクトルを列にもつ行列、Λ は固有値を対角成分にもつ対角行列です。
シューア分解との違い
- 固有値分解は、行列が対角化可能である場合にのみ存在します(ただし、非対称行列の場合、V はユニタリ行列ではなく、条件が悪くなる可能性があります)。
eig()
は実数行列に対しては複素数の固有値と固有ベクトルを返すことがありますが、schur()
の T は実数行列のままで2x2ブロックを持つ Real Schur Form になります。 - シューア分解は常に存在し、数値的に安定です。T は上三角行列ですが、対角行列であるとは限りません。
いつ使うか
- 特に、行列が対称行列やエルミート行列である場合、固有値分解は非常に安定しており、V はユニタリ行列(直交行列)になります。この場合、A=VΛV∗ となり、シューア分解の特殊なケースと見なせます。
- 行列の固有値と固有ベクトルそのものが必要な場合。
プログラミング例
using LinearAlgebra
A = rand(4, 4)
println("元の行列 A:")
display(A)
# eig() を呼び出す (固有値と固有ベクトルを計算)
E = eigen(A)
println("\n固有値 (E.values):")
display(E.values)
println("\n固有ベクトル行列 (E.vectors):")
display(E.vectors)
# 検証: A * E.vectors ≈ E.vectors * Diagonal(E.values)
# または A ≈ E.vectors * Diagonal(E.values) * inv(E.vectors)
reconstructed_A_eig = E.vectors * Diagonal(E.values) * inv(E.vectors)
println("\n元の行列と固有値分解から再構成された行列の差のノルム: ", norm(A - reconstructed_A_eig))
# 対称行列の場合 (より安定)
S = Symmetric(rand(4, 4)) # 対称行列を作成
Es = eigen(S)
println("\n対称行列の固有値 (Es.values):")
display(Es.values)
説明
特異値分解(Singular Value Decomposition, SVD)は、任意の m×n 行列 A を A=UΣV∗ の形に分解します。ここで U と V はユニタリ行列、Σ は非負の対角成分(特異値)を持つ対角行列です。
シューア分解との違い
- SVDはランクの決定、最小二乗問題、低ランク近似などに使われます。
- SVDの特異値は常に非負の実数です。
- SVDは任意の行列(正方行列である必要がない)に適用できます。