Julia 初心者向け:LinearAlgebra.qr() を使った行列分解プログラミング入門
LinearAlgebra.qr()
関数は、与えられた行列を QR分解 するための関数です。QR分解とは、行列 A を直交行列 Q と上三角行列 R の積として表現することです。数式で表すと、以下のようになります。
A=QR
ここで、
- R は mtimesn の上三角行列です。つまり、対角成分より下の要素はすべてゼロです。
- Q は mtimesm のユニタリ行列(実数の場合は直交行列)です。つまり、Q∗Q=QQ∗=I (実数の場合は QTQ=QQT=I) を満たします。ここで、$Q^\*$ は Q の共役転置行列、QT は Q の転置行列、I は単位行列です。
- A は分解したい mtimesn の行列です。
LinearAlgebra.qr()
関数は、この Q と R を計算して返します。
LinearAlgebra.qr()
の使い方
Julia の REPL やスクリプトで、以下のように LinearAlgebra.qr()
関数を使用します。
using LinearAlgebra
A = [1.0 2.0; 3.0 4.0; 5.0 6.0]
qr_factorization = qr(A)
Q = qr_factorization.Q
R = qr_factorization.R
println("元の行列 A:\n", A)
println("\n直交行列 Q:\n", Q)
println("\n上三角行列 R:\n", R)
# 検証: Q と R を掛け合わせて元の行列 A に戻るか確認
println("\nQ * R:\n", Q * R)
このコードでは、まず LinearAlgebra
モジュールを using
しています。次に、例として 3times2 の行列 A
を定義しています。qr(A)
を呼び出すと、QRFactors
型のオブジェクト qr_factorization
が返されます。このオブジェクトには、Q
フィールドと R
フィールドがあり、それぞれ直交行列 Q と上三角行列 R を格納しています。
最後に、計算された Q
と R
を表示し、それらを掛け合わせた結果が元の行列 A
に近いことを確認しています。浮動小数点数の計算のため、完全に一致するとは限りませんが、非常に近い値になるはずです。
LinearAlgebra.qr()
の戻り値
LinearAlgebra.qr(A)
は、QRFactors
型のオブジェクトを返します。このオブジェクトは、以下のフィールドを持っています。
.P
: ピボット情報(ピボット付き QR 分解の場合).R
: 上三角行列.Q
: 直交行列(またはユニタリ行列)
デフォルトでは、ピボットなしの QR 分解が行われます。ピボット付き QR 分解を行いたい場合は、qr(A, ColumnNorm())
のように、第2引数にピボット戦略を指定します。
QR分解の応用例
QR分解は、数値線形代数の様々な問題に応用されます。主な例としては、
- 行列のランク推定: QR分解の結果を利用して、行列の数値的なランクを推定することができます。
- グラム・シュミットの正規直交化法: QR分解は、グラム・シュミットの正規直交化法の数値的に安定な実装と見なすことができます。
- 固有値計算: QRアルゴリズムは、行列の固有値を計算するための重要なアルゴリズムです。
- 線形方程式の最小二乗解: 過決定な線形方程式系 Ax=b の最小二乗解を効率的に求めることができます。
よくあるエラーとトラブルシューティング
-
メソッドエラー (
MethodError
):- 原因:
qr()
関数に予期しない型の引数を渡した場合に発生します。例えば、行列ではないベクトルやスカラー値を渡した場合などです。 - 例:
using LinearAlgebra v = [1.0, 2.0, 3.0] qr(v) # これはエラーになります
- トラブルシューティング:
qr()
関数に渡す引数が、分解したい行列(AbstractMatrix
のサブタイプ)であることを確認してください。- 引数の型を
typeof()
関数で確認し、意図した型であることを確かめてください。
- 原因:
-
次元に関するエラー (
DimensionMismatch
):- 原因: 主に、QR分解の結果である
Q
やR
を使って後続の計算を行う際に、行列の次元が合わない場合に発生します。例えば、mtimesn 行列を分解した場合、Q は mtimesm、R は mtimesn の次元を持ちます。これらの行列を不適切な次元の行列と乗算しようとするとエラーが発生します。 - 例:
using LinearAlgebra A = [1.0 2.0; 3.0 4.0; 5.0 6.0] qr_factorization = qr(A) Q = qr_factorization.Q b = [1.0, 2.0] # ベクトルの長さが Q の次元と合わない Q * b # これはエラーになる可能性があります
- トラブルシューティング:
- 行列の次元を
size()
関数で確認し、後続の演算で次元が整合するように注意してください。 - QR分解の結果である
Q
とR
の次元を理解し、それぞれの役割に応じた演算を行うようにしてください。
- 行列の次元を
- 原因: 主に、QR分解の結果である
-
特異に近い行列に関する警告 (
LinAlgWarning
):- 原因: 分解しようとしている行列が正則でない(特異行列)に近い場合、数値的な安定性の問題から警告が表示されることがあります。これはエラーではありませんが、計算結果の精度に影響を与える可能性があります。
- 例:
using LinearAlgebra A = [1.0 2.0; 2.0 4.0 + 1e-10] # ほぼ特異な行列 qr(A) # 警告が表示される可能性があります
- トラブルシューティング:
- 警告が表示された場合は、行列の条件数(
cond(A)
関数で計算できます)を確認し、行列が特異に近いかどうかを評価してください。 - 特異に近い行列を扱う場合は、特異値分解 (
svd()
) など、より安定した他の分解方法を検討する必要があるかもしれません。 - 計算の許容誤差を調整することで、警告を抑制できる場合がありますが、根本的な問題の解決にはならないことがあります。
- 警告が表示された場合は、行列の条件数(
-
ピボット選択に関する誤解:
- 原因: ピボット付き QR 分解 (
qr(A, ColumnNorm())
など) を使用した場合、返されるQRFactors
オブジェクトの.P
フィールドは置換行列またはピボットのインデックスベクトルです。これをQ
やR
と単純に組み合わせようとすると、意図しない結果になることがあります。 - トラブルシューティング:
- ピボット付き QR 分解の結果を利用する場合は、
.P
の意味を正しく理解し、必要に応じてQ * R
の結果を.P
を用いて元の順序に戻すなどの操作を行ってください。例えば、線形方程式 Ax=b を解く際にピボット付き QR 分解を用いた場合、QRPTx=b を解くことになります。
- ピボット付き QR 分解の結果を利用する場合は、
- 原因: ピボット付き QR 分解 (
-
数値的な不安定性:
- 原因: 非常に大きな値や非常に小さな値が混在する行列を分解する場合、浮動小数点演算の精度限界により、数値的な不安定性が生じることがあります。
- トラブルシューティング:
- 入力データのスケーリングを検討し、極端な値の差を減らすことを試みてください。
- より高精度の浮動小数点数型(
Float64
など)を使用することを検討してください。
一般的なトラブルシューティングのヒント:
- Julia のバージョンを確認する: 古いバージョンの Julia を使用している場合、バグが修正されている可能性があります。最新の安定版にアップデートすることを検討してください。
- 簡単な例で試す: 問題のある行列の代わりに、簡単な行列で
qr()
関数を試してみて、基本的な動作を確認すると良いでしょう。 - 関連するドキュメントを参照する:
?qr
と REPL で入力すると、qr()
関数のドキュメントが表示されます。引数、戻り値、関連する関数などの情報を確認しましょう。 - エラーメッセージを注意深く読む: Julia のエラーメッセージは、問題の原因に関する貴重な情報を提供してくれます。
基本的な QR 分解
まず、最も基本的な行列の QR 分解の例です。
using LinearAlgebra
# 分解したい行列 A を定義
A = [1.0 2.0;
3.0 4.0;
5.0 6.0]
# qr() 関数で QR 分解を実行
qr_factorization = qr(A)
# QRFactors オブジェクトから Q (直交行列) と R (上三角行列) を取り出す
Q = qr_factorization.Q
R = qr_factorization.R
println("元の行列 A:\n", A)
println("\n直交行列 Q:\n", Q)
println("\n上三角行列 R:\n", R)
# 検証: Q * R が元の行列 A に近いか確認
println("\nQ * R:\n", Q * R)
この例では、3times2 の行列 A
を qr()
関数で分解し、得られた直交行列 Q
と上三角行列 R
を表示しています。最後に、Q
と R
を掛け合わせて元の行列 A
に戻ることを確認しています。
正方行列の QR 分解と行列式
正方行列の QR 分解を利用して、行列の絶対値付きの行列式を計算する例です。
using LinearAlgebra
# 正方行列 B を定義
B = [4.0 1.0 2.0;
0.0 3.0 4.0;
0.0 0.0 5.0]
# QR 分解を実行
qr_factorization_B = qr(B)
R_B = qr_factorization_B.R
# 行列式は R の対角成分の絶対値の積
abs_det_B = prod(abs.(diag(R_B)))
println("元の正方行列 B:\n", B)
println("\nQR 分解後の上三角行列 R:\n", R_B)
println("\n行列 B の絶対値付き行列式:", abs_det_B)
# 参考: Julia の標準関数で計算した行列式
println("\nLinearAlgebra.det(B) の絶対値:", abs(det(B)))
上三角行列の行列式は、対角成分の積になります。直交行列の行列式の絶対値は 1 であるため、∣det(A)∣=∣det(QR)∣=∣det(Q)∣∣det(R)∣=1cdot∣det(R)∣=∣prod_iR_ii∣ となります。
線形方程式の最小二乗解
過決定な線形方程式系 Ax=b の最小二乗解を QR 分解を用いて求める例です。
using LinearAlgebra
# 過決定な行列 A とベクトル b を定義
A_ls = [1.0 1.0;
1.0 2.0;
1.0 3.0]
b_ls = [3.0, 5.0, 6.0]
# QR 分解を実行
qr_ls = qr(A_ls)
Q_ls = qr_ls.Q
R_ls = qr_ls.R
# 最小二乗解 x を求める
# Q' * A * x = Q' * b => R * x = Q' * b
x_ls = R_ls \ (Q_ls' * b_ls)
println("行列 A_ls:\n", A_ls)
println("\nベクトル b_ls:", b_ls)
println("\n最小二乗解 x_ls:", x_ls)
# 検証: A_ls * x_ls と b_ls を比較
println("\nA_ls * x_ls:\n", A_ls * x_ls)
この例では、まず A=QR と分解します。最小二乗問題 Axapproxb の解は、正規方程式 ATAx=ATb を解くことと等価です。QR 分解を用いると、RTQTQRx=RTQTbRightarrowRTRx=RTQTb となり、もし A がフルランクであれば、R もフルランクであり、RT は正則なので、Rx=QTb を解くことで最小二乗解 x を得られます。Julia では、\
演算子を使って上三角行列の連立方程式を効率的に解くことができます。
ピボット付き QR 分解
列ピボット選択付き QR 分解 (qr(A, ColumnNorm())
) を行う例です。
using LinearAlgebra
# 特異に近い行列 C を定義
C = [1.0 1.0 1.0;
0.0 0.0 1.0;
0.0 0.0 1.0]
# ピボットなしの QR 分解
qr_no_pivot = qr(C)
println("ピボットなし QR 分解:")
println("Q:\n", qr_no_pivot.Q)
println("R:\n", qr_no_pivot.R)
# ピボット付き QR 分解
qr_with_pivot = qr(C, ColumnNorm())
println("\nピボット付き QR 分解:")
println("Q:\n", qr_with_pivot.Q)
println("R:\n", qr_with_pivot.R)
println("ピボットのインデックス (P):\n", qr_with_pivot.p)
# ピボット行列 P を明示的に作成することもできます
P = zeros(Int, size(C, 2), size(C, 2))
for i in 1:size(C, 2)
P[i, qr_with_pivot.p[i]] = 1.0
end
println("\nピボット行列 P:\n", P)
# 検証: Q * R * P^T が元の行列 C に近いか確認
println("\nQ * R * P^T:\n", qr_with_pivot.Q * qr_with_pivot.R * P')
しかし、「LinearAlgebra.qr()
を使わずに同様の結果を得る」という意味であれば、いくつかの側面から代替的なアプローチを考えることができます。
グラム・シュミットの正規直交化法 (Gram-Schmidt Process) の自作
QR分解のアルゴリズムの一つであるグラム・シュミットの正規直交化法を自分で実装することで、qr()
関数を使わずに Q と R を計算できます。
function gram_schmidt(A::AbstractMatrix{T}) where {T<:AbstractFloat}
m, n = size(A)
Q = zeros(T, m, n)
R = zeros(T, n, n)
for j = 1:n
v = A[:, j]
for i = 1:j-1
R[i, j] = dot(Q[:, i], A[:, j])
v = v - R[i, j] * Q[:, i]
end
R[j, j] = norm(v)
Q[:, j] = v / R[j, j]
end
return Q, R
end
A_gs = [1.0 2.0; 3.0 4.0; 5.0 6.0]
Q_gs, R_gs = gram_schmidt(A_gs)
println("グラム・シュミット法で計算した Q:\n", Q_gs)
println("\nグラム・シュミット法で計算した R:\n", R_gs)
using LinearAlgebra
qr_result = qr(A_gs)
println("\nLinearAlgebra.qr() で計算した Q:\n", qr_result.Q)
println("\nLinearAlgebra.qr() で計算した R:\n", qr_result.R)
注意点
素朴なグラム・シュミット法は、数値的に不安定になる可能性があります。修正グラム・シュミット法 (Modified Gram-Schmidt Process) は、より安定した結果を得られますが、実装はやや複雑になります。LinearAlgebra.qr()
は、通常、ハウスホルダー変換 (Householder transformation) やギブンス回転 (Givens rotation) といった、より数値的に安定なアルゴリズムを使用しています。
他のライブラリの利用 (もしあれば)
現時点では、Julia の標準ライブラリ以外で、LinearAlgebra.qr()
と同様の機能を提供する主要なライブラリは一般的ではありません。もし将来的にそのようなライブラリが登場すれば、それを利用することが代替手段となる可能性があります。
特定の目的のための代替手段
QR分解の応用例(例えば、最小二乗解の計算)に焦点を当てる場合、QR分解を直接計算しなくても、他の方法で同様の結果を得られることがあります。
-
最小二乗解
- 正規方程式 ATAx=ATb を直接解く (
x = (A' * A) \ (A' * b)
)。ただし、この方法は ATA の条件数が大きくなる場合に数値的に不安定になる可能性があります。 - 特異値分解 (SVD) を用いて最小二乗解を求める (
svd(A)
)。SVD は数値的に安定性が高いですが、計算コストは QR分解よりも高くなる場合があります。
<!-- end list -->
using LinearAlgebra A_ls = [1.0 1.0; 1.0 2.0; 1.0 3.0] b_ls = [3.0, 5.0, 6.0] # 正規方程式による最小二乗解 x_ls_normal = (A_ls' * A_ls) \ (A_ls' * b_ls) println("正規方程式による最小二乗解:", x_ls_normal) # SVD による最小二乗解 U, S, V = svd(A_ls) S_inv = Diagonal(ifelse.(S .> 1e-10, 1 ./ S, 0)) # ゼロに近い特異値は無視 x_ls_svd = V * S_inv * U' * b_ls println("SVD による最小二乗解:", x_ls_svd) # QR 分解による最小二乗解 (比較) qr_ls = qr(A_ls) x_ls_qr = qr_ls.R \ (qr_ls.Q' * b_ls) println("QR 分解による最小二乗解:", x_ls_qr)
- 正規方程式 ATAx=ATb を直接解く (
Julia において、行列の QR分解を直接的に代替する標準ライブラリ関数は存在しません。LinearAlgebra.qr()
がそのための主要なツールです。
もし qr()
関数を使わずに同様の Q と R を得たいのであれば、グラム・シュミット法などのアルゴリズムを自分で実装する必要がありますが、数値的な安定性には注意が必要です。
特定の応用例(例えば、最小二乗解)においては、QR分解以外の方法(正規方程式、SVD など)を用いて同様の目的を達成できる場合があります。しかし、これらの方法はそれぞれ異なる数値的な特性と計算コストを持っています。